「純粋理性批判」を開いてみる ー純粋理性批判挑戦記ー 2

 

今回から自分なりに内容をまとめてみようと思います。

といっても、純粋理性批判を一読してたちどころに理解するほどの力はありませんので、当然間違いだらけだと思います・・・。ご指導ご鞭撻のほどお願いいたします。

 

訳文はカント,I(2017)『純粋理性批判 1』中山元訳, 光文社から引用します。

また、以下の内容はカントの訳文および訳者解説を読んで私が理解したもので、カント自身あるいは訳者が述べたこととは異なる場合があることを断っておきます。悪しからず。

 

さて、カントの純粋理性批判はその名の通り、「純粋理性」を「批判する」本です。

(?????ですよね・・・)

ここでの「批判」は、「悪く言う」という意味ではなく「吟味する」に近いです。

 

さて、「純粋理性」という言葉を理解するために、「アプリオリ」という重要な用語について先に説明しましょう。

 

アプリオリ」というのは哲学界では非常に有名な言葉らしいですが、これは「一切の経験に先立つ」(p. 248.訳注(7))という意味です。人間には生まれる前の記憶はもちろんありません(ここでの「生まれる前」は胎内にいるよりも前、すなわちこの世に存在する前という意味です)。それでも、生まれながらに誰に教わるでもなくできることってありますよね。「あるものごとを認識する」というのはまさにその類いです。

 

生まれる前の記憶がありえない以上、一切は経験から生まれるという考えがあります(イギリス経験論などはこういう考えのようです)。カントも本書の冒頭で「すべての認識は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。」(p. 37.)と認めています。

 

そうは言っても、経験から人が学習することができるのは、人間にあらかじめ「認識する」能力が備わっているからです。物事を認識する方法をあらかじめ(=アプリオリに)知っているからこそ、人間は経験を積み重ねることができます。

 

そして、カントはこの「アプリオリな」能力についてこそきちんと考えるべきだというのです。

 

カントは「理性」とは、「アプリオリな認識のための原理を与えることができる能力のこと」(p. 56.)であるといいます。さらに、「純粋な」とは、「アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない」(p.19)ということを意味します。すなわち、「純粋な理性」とは、「あるものをまったくアプリオリに認識することのできる諸原理を含む理性」(p.56)です。つまり、人間がものを「認識する」とき、その根底で理性がどのような働きをしているのかを調べよう(=批判しよう)、というのがこの「純粋理性批判」という著作なわけです。